竪穴式住居はいつまで使われた?平安や鎌倉、実は明治まで残った真相
日本史の教科書において、縄文時代や弥生時代の象徴として登場する「竪穴式住居」。学校教育の刷り込みによって、「古墳時代や飛鳥時代あたりで役目を終え、瓦屋根や掘立柱の建物へと取って代わられた」と記憶している人が少なくありません。しかし、各地の発掘調査報告書や民俗史料を紐解くと、この常識は鮮やかに覆されます。
実態を精査すると、竪穴構造の住まいは平安時代はおろか鎌倉時代、さらには北の地において明治時代末期に至るまで人々の命を支え続けていました。太古の原始的なシェルターとみなされがちな半地下建築が、なぜこれほど長期間にわたって日本列島に残り、そしていかなる技術革新と社会変動によって姿を消したのか。2026年現在の考古学的知見と実地記録から、知られざる住まいの変遷を解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:近畿などの西日本では平安時代初期に衰退した一方、関東では平安中期、東北地方では鎌倉時代まで竪穴住居が日常的な主屋として機能していた。
- 要点2:北海道の擦文文化を経て、極寒の千島列島では防寒シェルターとして明治時代(19世紀末)まで実際に生活の場として利用されていた。
- 要点3:住居が地上へ移行した決定打は「鉄製工具の普及による製材効率化」「生活様式の多様化と換気・湿気問題」「中世の村落形成と社会階層の変化」。
【歴史の真相】竪穴式住居はいつまで使われていたのか?平安・鎌倉から明治への系譜
多くの人が抱く「古代で終わった」というイメージに反し、発掘調査のデータは竪穴住居の驚くべき息の長さを証明しています。消滅の時期は日本全国一律ではなく、著しい「東高西低」と「南北の地域差」が存在しました。
都が置かれた畿内周辺では、8世紀から9世紀の奈良・平安初期にかけて平地式の掘立柱建物への転換が急速に進みました。しかし、中央政権から離れた関東地方では、平安時代中期(10世紀〜11世紀)の大規模集落跡からも煮炊き用の「竈(かまど)」を備えた竪穴住居が標準的な住まいとして無数に出土しています。当時の地方豪族や一般農民層にとって、地面を掘り下げて地熱を利用する住まいは、依然として合理的かつ不可欠な居住形態でした。
さらに北上した東北地方では、平泉に奥州藤原氏が栄えた平安末期を越え、鎌倉時代(12世紀〜13世紀)に至っても竪穴住居が一般的に使われていました。岩手県や青森県、秋田県内の遺跡群では、中世初頭の地層から明確な竪穴遺構と当時の陶磁器・鉄器がセットで検出されています。
極めつきは北の大地です。北海道では7世紀から13世紀頃にかけて独自の「擦文文化(さつもんぶんか)」が栄え、一辺が5〜8メートル四方の大型竪穴住居が定着していました。その後、アイヌ文化期に入ると平地式のチセ(茅葺きの家屋)が主流になりますが、千島列島(クリル諸島)の厳しい寒冷環境に生きた千島アイヌの人々は、冬期の防寒シェルターとして半地下式の「トイチセ(土小屋)」を受け継ぎました。1899年(明治32年)、人類学者の鳥居龍蔵氏が色丹島などで行った現地調査の写真と手記には、明治末期になっても竪穴住居で暖を取る人々の生々しい営みが明確に記録されています。
【徹底比較】竪穴式住居と掘立柱建物の違いと日本の住まいの歴史変遷年表
住まいの進化を理解する鍵は、「地面を掘り下げる構造(竪穴)」から「地面の上に柱を直立させる構造(平地・掘立柱)」への転換点にあります。両者の構造的な差異と、地域ごとの変遷プロセスを一覧で整理しました。
| 時代区分・時期 | 主な住居形式と地域動向 | 構造的特徴・技術的転換 | 考古学調査・歴史的エビデンス |
|---|---|---|---|
| 縄文〜古墳時代 (紀元前〜6世紀) | 日本全域で竪穴住居が主流。 支配層のみ高床建物を使用。 | 地面を30〜50cm掘り下げる。 中央に炉、古墳期以降は竈が登場。 | 三内丸山遺跡(青森)、登呂遺跡(静岡)など全国各地の拠点的集落。 |
| 奈良〜平安時代 (8世紀〜11世紀) | 西日本:平地式(掘立柱)へ移行。 東日本:竪穴住居が依然主流。 | 西日本では律令制下の製材技術普及。 東日本では地熱保温の有用性が勝る。 | 関東各地の平安期官衙周辺遺跡から、10世紀後半の竪穴住居群が多数発掘。 |
| 鎌倉〜室町時代 (12世紀〜15世紀) | 本州の大部分で平地式に移行完了。 東北北部で竪穴住居が継続。 | 大工道具(鉄製鋸・手斧)の普及。 床張りや土間空間の分離が定着。 | 東北北部の中世城館・集落跡から、13世紀初頭の竪穴住居址が出土。 |
| 江戸〜明治時代 (17世紀〜19世紀末) | 本州は農民層も木造平地住宅。 北海道千島列島等で竪穴存続。 | 千島アイヌの「トイチセ」。 木材不足と防風雪のための地下掘削。 | 鳥居龍蔵『千島アイヌ』調査手記(1899年)、開拓使公文書の居住記録。 |
竪穴住居の構造と特徴は、地表面を掘り下げて壁の一部とし、その外周に屋根を直接葺き下ろす、あるいは低い側壁の上に屋根を架ける点にあります。基礎工事が不要で、地中温度の安定性を味方にできる優れたシェルターでした。
対する掘立柱建物は、地面に掘った穴(柱穴)に直接柱の根元を埋め込み、地上に梁や桁を組んで壁と屋根を構成します。竪穴住居と掘立柱建物の決定的な違いは、「床面の高さ」と「木組みの自立性」です。掘立柱建物は室内の湿度コントロールや通気性に優れ、床を高く張れば防湿・防獣性能が跳ね上がりますが、高度な軸組技術と頑丈な製材加工が不可欠でした。
なぜなくなったのか?平地式住居へ完全移行した4つの決定的理由
数千年にわたって列島民の命を守り抜いた竪穴住居が、本州全域で最終的に消滅していった背景には、単なる流行や好みの問題ではなく、生産技術と社会インフラの抜本的変化がありました。
1. 鉄製工具の普及による「木材加工技術」の飛躍的進化
古代から中世への最大の転換点は、鉄製工具(手斧、釿、鋸、鑿など)の一般農民層への普及です。古代の未熟な工具では、巨木を角材や厚板に製材することは途方もない労力を要しました。そのため、丸太を掘立柱として最小限に組み合わせる竪穴住居が合理的だったのです。しかし中世に入り、鍛冶技術の向上によって良質な鉄器が全国に流通すると、板材や角材を正確に切り出し、ホゾ継ぎなどの複雑な木組み加工を行うハードルが一気に下がりました。
2. 居住空間の衛生改善(湿気・カビ・煙害からの脱却)
竪穴住居の最大の弱点は「換気」と「湿気」でした。地下に掘り下げられた床面は、地下水位が高い地域や梅雨時において湿気がこもりやすく、木柱の根元が数年から十数年で腐朽します。また、室内で火を焚くため、排煙設備が不完全な初期の住居では常に煤煙が充満し、住人の呼吸器系に深刻な負担を強いていました。平地式への移行は、壁面に開口部(窓や引き戸)を設け、風通しと採光を確保するという公衆衛生・健康寿命における歴史的ブレイクスルーでした。
3. 農業生産力の向上と「作業・貯蔵スペース」の拡大
平安時代から鎌倉時代にかけて、二毛作の普及や牛馬耕の導入により、農村の生産力は爆発的に向上しました。これに伴い、収穫した穀物の乾燥・保管場所、農具のメンテナンス場所、さらには飼育する牛馬を収容する厩(うまや)など、住居に求められる機能が劇的に増加します。半地下のワンルーム構造である竪穴住居では手狭になり、土間(作業スペース)と床上(居住スペース)をシームレスに拡張できる平地式住居でなければ、農業経済の発展に対応できなくなったのです。
4. 荘園制の再編と中世惣村における「定住の固定化」
社会構造の変化も見逃せません。古代の集落は、地力の減退や柱の腐敗に合わせて頻繁に集落ごと小規模な移転(移動生活の名残)を繰り返していました。しかし鎌倉期から室町期にかけて「惣村(そうそん)」と呼ばれる強固な自治村落が形成されると、屋敷地が固定化されます。代々同じ土地に住み継ぐ強固な家屋を建てる必要が生じ、柱の根元を地面に埋めない「礎石立ち」の平地住宅へと住居観そのものがアップデートされていきました。

竪穴式住居のメリットとデメリット|過酷な自然に適応した驚くべき居住性能
現代の視点から見ると未開の住居に見えがちな竪穴住居ですが、環境工学の観点からは極めて優れたパッシブデザイン建築でした。その長所と短所を客観的に評価します。
卓越したメリット:地熱利用と強固な耐震・耐風性能
- 圧倒的な断熱・保温効果:周囲が土壁に覆われているため外気温の変動を受けにくく、真冬であっても室内の炉に火を入れれば、わずかな燃料で室内全体を暖かく維持できました。
- 風害・震災に対する耐久力:地表からの突出高が低いため、台風などの暴風をまともに受けることがありません。また、重心が極めて低く屋根材が柔軟にしなるため、大地震による倒壊リスクが極端に低い構造でした。
- 建築コストの圧倒的な低さ:専門的な大工道具や熟練の職人技術を必要とせず、地域の共同体内で調達できる木材、茅、土、植物の蔓(つる)だけで短期間に建設可能でした。
致命的なデメリット:浸水リスクと居住性の限界
- 豪雨時の排水と浸水脆弱性:周囲から雨水が流れ込むのを防ぐ周溝(排水溝)を掘るものの、集中豪雨や融雪時には床上浸水に見舞われやすく、立地選びに厳密な制約がありました。
- 木柱の早期腐食:湿った地中に木柱を直に埋める構造上、土壌菌による木材の腐食が早く、定期的な柱の掘り替えや15〜20年スパンでの建て替えを強いられました。
- プライバシーと採光の欠如:屋根の隙間や出入口からしか外光が入らず、室内は日中でも薄暗い状態でした。間仕切りのない単一空間であったため、家族人数の増加や世代間のプライバシー確保は不可能な設計でした。
【実態検証】東北地方の歴史と北海道・擦文文化が語る「寒冷地サバイバル」の知恵
なぜ西日本が早々に平地住居へ舵を切った後も、東日本、とりわけ東北や北海道では竪穴住居が愛用され続けたのでしょうか。そこには冷酷なまでの「気候への最適化」がありました。
国立歴史民俗博物館や東北各県の埋蔵文化財センターによる発掘データによれば、東北地方の古代〜中世集落では、西日本で廃止された後も「壁立ち型竪穴住居」と呼ばれる進化した形態が用いられていました。これは壁面をしっかり丸太で補強し、精巧な粘土製のかまどと煙道を外部に突き出させた構造です。外の吹雪が氷点下数十度に達する環境下において、薄い板壁と土間からなる初期の平地式住居は、あまりにも寒すぎたのです。
北海道の擦文時代(7〜13世紀)の住居跡からは、室内空間が60平方メートルを超えるような大型竪穴遺構も見つかっています。擦文文化の人々は、中央政権の影響を受けつつも、頑なに竪穴住居のスタイルを墨守しました。彼らにとって竪穴は「過去の遺物」ではなく、厳しい亜寒帯の冬を乗り切るための最先端サバイバルテクノロジーだったのです。
明治政府の開拓使記録や、1890年代の北千島調査報告書にもその機能性が如実に記されています。当時、千島列島を訪れた調査団は、暴風吹き荒れる無木化地帯において、日本人役人が持ち込んだ板葺き平地小屋が寒風で使い物にならなかったのに対し、現地の人々が地下に掘り屋根に土を盛った竪穴(トイチセ)の内部が「驚くほど静粛で暖気に満ちていた」と感嘆の念を記しています。

一般に知られていない盲点とネットの誤解|現代シェルター思想との共通項
Web上や歴史ファンの間では、住居の進化論に関していくつかの誤認が定着しています。事実を検証し、現代的な視点からその価値を再評価します。
誤解1:「平地式住居の方がすべての面で竪穴住居より優れていた」
これは明らかな誤りです。平地式住居(特に中世の庶民住宅)は、換気や作業性の面では勝っていましたが、防寒性・保温性能においては竪穴住居に遠く及びませんでした。実際、中世の農民住宅は隙間風が激しく、冬の寒さに耐えかねて炉の周りに藁を厚く敷き詰め、身を寄せ合って凍死を防いでいたことが当時の絵巻物(『病草紙』など)からも窺えます。平地式への移行は、住環境としての総合的なバランスを取った結果であり、単なる「居住性能の向上」だけが理由ではありません。
誤解2:「明治まで残ったのは文明から隔絶された特殊ケースに過ぎない」
千島列島の事例を「例外中の例外」として切り捨てる見方もありますが、建築人類学的には「その土地の環境的制約(森林資源の有無・極寒・強風)に対して最も適した合理的な選択をした結果」と捉えるのが妥当です。資源が限られ、極限状態に置かれた人間が最終的に選んだのが竪穴構造であったという事実は、この住居形態が持つ普遍的な強靱さを物語っています。
【プロの結論】現代の防災シェルター・オフグリッド建築に見る適性の判断
近年、地震災害の激甚化やカーボンニュートラルの文脈から、竪穴住居に着想を得た「アースシェルター(半地下住宅)」や「オフグリッド・タイニーハウス」に関心が寄せられています。歴史の教訓から導き出される、竪穴構造の思想を取り入れる際の向き・不向きの基準は明快です。
- 採用に適している条件:寒冷地で暖房エネルギー消費を抑えたい環境、強風や竜巻・台風の直撃を受けやすい吹きさらしの丘陵地、地盤が強固で地下水位が極めて低く水はけの良い台地。
- 避けるべき条件:湿地帯や河川の氾濫原、梅雨期に長雨が続く高湿度地域、換気システムを人工的に維持できない閉鎖空間。適切な防水・換気対策を欠いた半地下構造は、数年で深刻なカビ被害と健康被害をもたらします。
【竪穴式住居 いつまで】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:一般的に、本州の多くの地域で竪穴式住居が姿を消したのは何時代頃ですか?
A1:地域差がありますが、西日本(畿内周辺)では平安時代初期(9世紀頃)に掘立柱建物への移行が進んで姿を消しました。一方、関東地方では平安時代中期〜後期(10〜11世紀)、東北地方では鎌倉時代初頭(12〜13世紀)まで日常的な住まいとして使われており、本州全域で完全に消滅したのは中世(鎌倉時代中頃)のことです。
Q2:なぜ西日本と東日本で平地式住居への移行時期に数百年もの差が生じたのですか?
A2:最大の理由は「気候の違い」と「中央集権(律令国家)の技術的影響度」です。温暖な西日本では換気や防湿の優先度が高く、都の造営に伴う製材技術もいち早く波及しました。対して寒冷な東日本や東北では、厳しい冬を生き抜くために地熱による保温性能が不可欠であり、製材技術の普及速度の違いも相まって、竪穴住居が長く支持され続けました。
Q3:明治時代まで残っていた竪穴住居は、どのような構造だったのですか?
A3:北海道千島列島などで千島アイヌの人々が冬期に用いた「トイチセ(土小屋)」が代表例です。地面を約1メートルほど掘り下げ、流木や獣骨を骨組みとして屋根を架け、その上を草と厚い土で覆い尽くす半地下構造でした。吹雪と極寒を遮断するシェルターとして、明治時代末期(1890年代末)まで実用されていた様子が写真史料に残されています。
まとめ:住まいの歴史が教える「環境適応」の本質
「竪穴式住居はいつまで使われていたのか」という問いの先に見えてくるのは、日本列島の多様な風土と、それに寄り添った先人たちの驚くべきサバイバル知恵です。古代の教科書的イメージに囚われていると見落としてしまいますが、実際には平安、鎌倉、そして北の地では明治に至るまで、その土地の環境に合わせた最適な住居として機能し続けました。
建築の歴史とは、単に「原始から近代へ」という一方通行の進歩史ではありません。手に入る道具、家族のあり方、地域の気候、そして生業の形態に応じて、人間がいかに自然と折り合いをつけてきたかの試行錯誤のプロセスです。エネルギー消費を最小限に抑え、大地の熱と構造の柔軟性によって命を守り抜いた竪穴住居の基本構造は、激甚化する気候変動や防災を考える現代の私たちにとっても、建築の原点として色褪せない教訓を示し続けています。 (出典: 竪穴式住居 いつまで(Yahoo!ニュース))